情報公開裁判の目的は裁判自体の勝訴というより、裁判を通じ、政府が隠蔽している情報が市民にとってどれくらい重大な、重要なものであるかをひとりでも多くの市民に認知、理解してもらうことにある。
そのためには、情報公開裁判を市民にどう知らせるか、その告知の仕方がとても重要。つまり、市民に何を伝えたいのか、その核心をズバリ示す必要がある。しかし、それは言うは易き、行い難しだ。
以下は、7年前、農研機構の極めて問題のある遺伝子組換えイネの野外実験に対し、第三次の実験ノート裁判を提訴した(>その報告)ときのニッポン消費者新聞に掲載された記事(2019.9.1)。
今、再読して別に誤ったことを語っている訳ではないが、このときには、無我夢中で自分が市民に訴えたいことを訴えたにとどまり、対する市民の側がいったい何を知りたがっているのか、市民の心をまったく考えていなかった。人を見て法を説くことをまるっきりしていなかった。とはいえ、それは至難の業。しかし、これを考えずして、ただ己の信念を突き進むのだけでは、それでは、結局、対話は成立しない。対話への取り組みが決定的に欠けており、足りない。
2026年8月26日水曜日
013:各論3(いかに市民に告知・アピールするか):第三次実験ノート提訴時の記事 2026.8.26
2026年8月23日日曜日
012:総論10(腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張〔続き3〕):行政裁量に関する革命的主張だと思った小早川理論は羊頭狗肉で落胆、あとは自力で進むしかないと腹を括った。2026.8.24
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介の続き。ただし、ここでは彼の限界を発見し、落胆と再出発について書いた。
Subject: [2019maxlaw:2330] 報告(続き3):行政裁量に関する革命的主張だと思った小早川理論は羊頭狗肉で落胆、あとは自力で進むしかないと腹を括った
Date: Wed, 1 Dec 2021 01:16:42 +0900
柳原です。
昨日、小早川光郎の見解を行政裁量に関する革命的主張だと紹介し、その後、彼の見解をトレースしてきました。
彼の次の問題提起、
> 行政裁量の中心的な課題とは、行政機関が案件を処理(行政行為)する際の判断基準が法定されていない場合、その判断基準の穴を補充することにある、と。
これは実に素晴らしい。
そこで問題は、その次の、
では、判断基準の穴を補充作業はいかにして行われるべきか
です。
この補充作業の具体化こそ、小早川理論の輝きの頂点になるはずのもので、それがどのように展開されるのか、固唾を呑んでトレースしてきました。
そしたら、何もない!この肝心要の補充作業の具体化が。彼の教科書にも、彼の論文にもない。
ふざけるんじゃないよ、これじゃ詐欺じゃん。素晴らしい問題提起をしておきながら、いよいよ本番の「補充作業の具体化」は未完だなんて、そんな羊頭狗肉は許せない!
こばやかわ、でじゃなくて、こばかにしやがって!だ。
そこで、ひとしきり反吐を吐いたので、気を取り直して、小早川理論の第2章を自力で展開することにしました。
その方針は、
補充作業の具体化のモデルは2つ。
1つは、法の欠缺の補充作業における具体化のやり方。
もう1つは、権利濫用、公序良俗など一般条項における具体的な判断基準の定立のやり方。
以下、その粗いスケッチを描いておきます。
1、法の欠缺の補充作業における具体化のやり方
(1)、石田穣(みのり)の「法解釈学の方法」の中に「法の欠缺の補充」について具体的な方法が述べてあり、それによると、
(a)、類推(解釈)
(b)、反対(解釈)
(2)、法哲学の本として、平野・亀本・服部『法哲学』の中に「法の欠缺の補充」について解説。
https://shoyo3.hatenablog.com/entry/2018/03/18/202102
(3)、法学概論の本として、
金沢大学の授業のテキスト「2020年度「法学概論 基礎法学編」
http://law-kanazawa.info/wp-content/uploads/2020/07/20intro.pdf
↑
欠缺補充の主要な方法は類推(または類推推論)。
ちなみに、井戸さん担当の「学校環境衛生基準問題」。これは上記の「類推」の法理で一件落着です。つまり、既に定められている毒物に対する学校環境衛生基準、これと同等の基準が放射性物質についても類推して適用されるべきである、と。
以上、粗いスケッチでした。
このあと、精度を上げて具体論を展開したいと思います。
011:総論9(腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張〔続き2〕):日光太郎杉東高判決についての解説。2026.8.24
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介の続き。
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Subject: [2019maxlaw:2326] 報告(続き2):日光太郎杉東高判決についての解説
Date: Mon, 29 Nov 2021 10:39:33 +0900
柳原です。
これはコーヒーブレイク。
日光太郎杉東高判決についての超簡単で分りやすい解説です。多忙な光前さん、これなら2分で読めますよ。
「日光太郎杉事件」のこと
-------------------------------
「日光太郎杉事件」というのは,栃木県の日光東照宮(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る)には,「太郎杉」と呼ばれる高度の文化的価値のある古木が存在するが,当時の建設大臣が道路拡幅のため,土地収用法20条を適用して,その「太郎杉」の伐採計画を含む土地収用裁決を行ったところ,この計画に反発した地元住民がその裁決の違法を主張して起こした行政訴訟である。
この訴訟で,東京高裁は,建設大臣の土地収用裁決について,裁量権行使の方法・過程に違法があるという行政裁量をコントロールする新たな法的枠組を構築・判示し,当該土地収用裁決を取り消した。
曰く「(行政裁量の行使方法について)本来最も重視すべき諸要素・諸価値を不当・安易に軽視し,その結果当然尽くすべき考慮を尽くさず,又は本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れもしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価」した場合には,「裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるものとして,違法となる」, 「高度の文化的価値を持つ自然環境の保全は、国民が健康で文化的な生活を営む条件にかかわるものとして、行政の上においても最大限に尊重されるべきものであるから、これを道路建設のため収用するには、右の要請を越える必要性がなければならない」という。
現在の裁判官の圧倒的多数が,国に対する行政訴訟で,-原発訴訟といい,辺野古訴訟といい-,国の指定代理人から「行政裁量」の抗弁がでてきた途端に,「思考停止」してしまい,私人の側を負けさせるといった嘆かわしい傾向・現実があること(その例外が,「絶滅危惧種」と呼ばれる藤山雅行裁判官等)を思うにつき,学生時代に学んだ「日光太郎杉事件」のことがつくづく思い出されるのである。
010:総論8(腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張〔続き〕):塩野・宇賀の不徹底な行政裁量論の壁を突破しようとした小早川理論が結実したのが日光太郎杉東高判決。2026.8.24
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介の続き。
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Subject: [2019maxlaw:2325] 報告(続き):塩野・宇賀の不徹底な行政裁量論の壁を突破しようとした小早川理論が結実したのが日光太郎杉東高判決
Date: Mon, 29 Nov 2021 10:15:27 +0900
柳原です。
昨日、書き始めて、別件でバタバタしていて、中断していました行政裁量論の革命的見解=小早川理論の続きを書きます。
1、問題の発端
私にとって、行政裁量論は、行政の独裁の正当化理論です。それは、行政法の基本原理として「法律による行政の原理」が認められたのに、行政裁量論はたとえその必要性が認められるとしても、この基本原理の重大な例外を認めることになるのだから、その例外を容認するためには、厳密な正当化の根拠の説明が求められます。
にもかかわらず、これまで通用してきた「行政裁量権の逸脱と濫用」の説明では、単に「社会通念上著しく妥当性を欠いたかどうか」で違法性を判断するという、極めてザルの判断手法が取られて来ました。
その結果、事実上、行政の独裁(専横)がまかり通って来ました。
この理不尽さを、塩野も、教科書の裁量論のところで指摘しておきながら、その矛盾の解決を正面から立ち向かおうとせず、実にコソコソと遠慮深く記述しており、その中で用心深く指摘したのが、
日光太郎杉東高判決(昭和48年7月13日)
です。この判決要旨のエッセンス部分
「本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易に軽視し、その結果当然尽すべき考慮を尽さず、または本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れもしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価し、これらのことにより同控訴人のこの点に関する判断が左右されたものと認められる場合には、同控訴人の右判断は、とりもなおさず裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるものとして、違法となる」
まで紹介しておきながら、なぜ、このような判断手法が正当化されるのか、その根拠となる理論的な説明は一切せずに、せいぜい、そのあと、この重大判決が最高裁によって骨抜きにされていく過程をおそるおそる紹介するにとどまっています。
この塩野の耐えられないほどの用心深さに、正面から切り込み、日光太郎杉東高判決が示した判断手法の理論的な基礎を提供したのが、
昨日紹介した佐々木惣一=小早川光郎理論です。
それは、これまで行政裁量の領域では、行政の合目的な判断が尊重されるという名目で、行政独裁を正当化してきたのに対し、「待て!そんな専横は許されない」と、行政の合目的な判断過程に、再び、
判断基準に関する規範の再導入を目論んだものです。
だから、これは結局、この規範の再導入によって「規範による行政の原理」が実現したことになり、その意味で、これは「法律による行政の原理」の再定義です。
↑
この理論が政府権力者を激怒されることは当然予想されることで、彼らの反論はまず、
「そもそもそんなだいそれた理論はいったい何を根拠に主張できるのか。その根拠を示せ」
として現れると思います。
↑
私も、ここが最も気になるところで、革命的な主張は、非合法で主張するにひとしいものだとしたら、その理論的根拠なんか示せないんじゃないかと思ったからです。
しかし、小早川は、この根拠(の1つ)について、さり気なく、何の衒いもなく、ぬけぬけとこう書いていたのです。
「明文の定めがなくても当然に予定されているものと考えられる」(昨日アップした論文393頁1行目)
↑
何と!何という大胆不敵さ。これだったら、何でも言えるじゃん、殆ど「非合法の主張」と紙一重じゃん。と思って、上記の記述の注(21)を読むと、こう書いてあります。
「このような行政の考慮義務の観念(←上に指摘した判断基準に関する規範)は、佐々木惣一が『行政機関が自由裁量の職権を有する場合には誠実に考量してその活動の直接の標準を選択するを要する』と説いているところに、すでに含まれている。それは、公務員のいわゆる忠実義務の一部をなすものでもあると考えられる。
↑
つまり、行政の本質=私益ではなく、もっぱら公益のために奉仕する公務員の職権行使にあたって、誠実な行使、忠実義務から導かれるのだ、と。
まあ、「法律による行政の原理」よりもっと根本に遡り、民主主義の大原理に立ち帰って、行政の裁量行為をこう再定義したんですね。
私は、小早川のこの徹底した原理主義者ぶりに、あっぱれと感服した次第です。
そして、小早川が彼の理論を具体化、結実化したものとして、塩野が裁量統制のリーディングケースとして推奨する日光太郎杉東高判決となります。
つまり、塩野が説明しなかった、なぜ日光太郎杉東高判決のロジックが裁量統制の一般論として認められるのか、その正当化の根拠を示したのが佐々木惣一=小早川光郎理論です。
それゆえ、最高裁が日光太郎杉東高判決を心底敵視していることはミエミエです(最高裁HPにも掲載されていない!)。
しかし、塩野、小早川、宇賀をはじめ学者がこぞって推奨する日光太郎杉東高判決の徹底活用が、私どもの二審の決め手になると考え、その理論的な正当化を示すために、佐々木惣一=小早川光郎理論を紹介しているところです。
この稿、続く。
先日の弁護団会議で、予告しました、今週末に行政裁量論を準備するという件、昨日、それを初めて、夜中にビックリ仰天、腰を抜かすような学説に出会いました。
1946年京都生まれの行政法学者小早川光郎の教科書と論文です(添付しました。論文は388頁以下)。
そのポイントは、
行政裁量の中心的な課題とは、行政機関が案件を処理(行政行為)する際の判断基準が法定されていない場合、その判断基準の穴を補充することにある、と。
↑
これって、法の欠缺の中心的な課題と同じじゃないか。なぜなら、法の欠缺も事実関係に対応する法定めがない場合、その穴を補充することにあるからです。
これまでずっと、法の欠缺の克服という課題は、311以後の最大の法律問題だと思って、その意義を考えて来ましたが、ここに来て、その思想が行政裁量でも妥当することを、理論的に示してくれたのが小早川でした。
しかも、小早川がこの見解の拠って立つ基盤は、今から90年前の京大の行政法学者佐々木惣一の「行政機関の自由裁量」です。
行政裁量の最先端の議論がすでに、90年前、美濃部と佐々木によって主張されていたとは、この90年間、何やってたんだと思います。
ちなみに、この2人はともに学問の自由の弾圧を受けた当事者です。何かすごい連中ですね。
この論点、続く。
009:総論7(腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張):行政裁量の中心的な課題は法の欠缺のそれと同じだ、と。2026.8.24
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介と自問自答。
◆コメント
どちらも補充する点は共通だが、ただし、法の欠缺は「法の解釈」のレベルで補充するのに対し、小早川の補充は「法の解釈」ではなく、「行政裁量の中の基準」にとどまるのではないか。その結果、たとえこの基準に違反しても、違法にはならず、単なる当不当のレベルにとどまるのではないか。
↑
それに対し、上記の基準違反を違法と言うためには、小早川の議論を「法の解釈」として主張する必要があるが、そのためには、その根拠、正当理由が必要。問題は、それはどこに見出せるか?にある。
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Subject: [2019maxlaw:2324] 報告:腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張:行政裁量の中心的な課題は法の欠缺のそれと同じだ、と。
Date: Sun, 28 Nov 2021 15:03:51 +0900
柳原です。
先日の弁護団会議で、予告しました、今週末に行政裁量論を準備するという件、昨日、それを初めて、夜中にビックリ仰天、腰を抜かすような学説に出会いました。
1946年京都生まれの行政法学者小早川光郎の教科書と論文です(添付しました。論文は388頁以下)。
そのポイントは、
行政裁量の中心的な課題とは、行政機関が案件を処理(行政行為)する際の判断基準が法定されていない場合、その判断基準の穴を補充することにある、と。
↑
これって、法の欠缺の中心的な課題と同じじゃないか。なぜなら、法の欠缺も事実関係に対応する法定めがない場合、その穴を補充することにあるからです。
これまでずっと、法の欠缺の克服という課題は、311以後の最大の法律問題だと思って、その意義を考えて来ましたが、ここに来て、その思想が行政裁量でも妥当することを、理論的に示してくれたのが小早川でした。
しかも、小早川がこの見解の拠って立つ基盤は、今から90年前の京大の行政法学者佐々木惣一の「行政機関の自由裁量」です。
行政裁量の最先端の議論がすでに、90年前、美濃部と佐々木によって主張されていたとは、この90年間、何やってたんだと思います。
ちなみに、この2人はともに学問の自由の弾圧を受けた当事者です。何かすごい連中ですね。
この論点、続く。
008:総論6(行政法の停滞・思考停止の理由)歴史的考察(ラスト):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について反動期の誕生の理由
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したものその6。
Subject: [2019maxlaw:2394] 行政裁量論の基本問題(10):歴史的考察(ラスト):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について反動期の誕生の理由
Date: Mon, 10 Jan 2022 23:06:38 +0900
From: Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
Reply-To: 2019maxlaw@googlegroups.com
To: 2019maxlaw@googlegroups.com
柳原です。
先ほど来、日本の行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる論争史を4つの段階で区切って検討して来ました。
現時点の課題は、第3期の反動期を克服することですが、その際にずっとその理由が分らず気になっていることがあります。それが、
行政裁量論の問題の設定の仕方を、それまでの「あれかこれか」(羈束行為か自由裁量か)から、「あれでもこれでもなく、さらにその奥がある」といった新しい次元の切り口に進んでいったとき、
そこで、なぜ、「裁量権の逸脱・濫用」論が復活してのさばっているのか、です。
問題設定を新しい次元の切り口にしたからといって、そこから論理必然的に「裁量権の逸脱・濫用」論が登場する理由はないからです。
しかし、言いにくいことですが、その訳も意外と簡単なのではないかと気が付きました。
第3期に突入した時点で、新しい次元の切り口で問題を設定した時、求められていたことは、この新しい次元の切り口での問題提起に対し、それに相応しい問題解決の判断基準を建てることでした。
しかし、思うに、行政法の学者先生は、この課題に応えるべく、新しい判断基準を提出しなかった(本人たちは出来なかったと感じているのでしょうが)。
その結果、問題解決の判断基準の部分が空白となり、いわば「法の欠缺」状態となってしまった。
しかし、新しい次元の切り口で問題を提起した以上、何かしらの判断基準を使って解決を引き出すことが避けられない。そこで、その時に登場したのが、昔から口にされてきた古色蒼然たる理論「裁量権の逸脱・濫用」論だった。
これが魅力的な理論ではないことは、判断を迫られた現場の裁判官たちも重々承知していたはずです。しかし、じゃあ、自分で独力で、この問題解決の判断基準を作り出すなんて、藤山裁判官以外は無理。そこで、彼らは、(しぶしぶかまあ、いいか思ったかは別にして)「裁量権の逸脱・濫用」論を使うことにした。
こうした判決の積み重ねが、とうとう、「裁量権の逸脱・濫用」論の堂々たる復活となって、ゆるぎない地位を占めるに至った、というわけです。
この事態を見て、塩野は「裁量権の逸脱・濫用」論が定着していると教科書で嘆いていましたが、それを言うんだったら、学者として飯を食っている自己批判が先だろと言いたい。
あんたみたいな学者が、新しい次元の切り口で問題提起したことに相応しい問題解決の判断基準を出してくれないから、判断基準の「法の欠缺」状態を回避するために、裁判官は裁量権の逸脱・濫用」論によるしかなくなり、そのうち、それが習い性みたいになってしまった。
今の事態を嘆く前に、己の非力さを猛省して、師匠の田中二郎も不徹底だった「憲法の大転換に匹敵するだけの行政法の大転換」という原点に立ち返って、この問題に対する新たな判断基準を建てることに励むべきです(塩野は90歳でまだ生きているので、彼のケツを叩いている)。
そして、この問題に対する新たな判断基準を建てた人がいる。白石裁判長らの日光太郎杉事件判決です。
尤も、亘理格という行政法学者は、その後の裁判官たちが、この白石コートの判決を踏襲しようとしなかったことをなじっていますが、必ずしもそうとは思いません。
小田急高架化訴訟でも一審の藤山判決もこれをひっくり返した高裁判決も共に日光太郎杉事件判決のロジックを使っているし、
先日の沖縄の辺野古埋め立て工事の裁判で、最高裁の多数意見と反対の少数意見はともに、日光太郎杉事件判決のロジックを使っている。
要するに、どちらにも使えるような未完成の判断基準の面があり、そこで、「憲法の大転換に即して行政法の大転換」という基本原理からその未完を完成させる必要がある。
ここに、行政裁量論の具体的問題の課題が示されていると思いました。
以上で基本問題の検討は終わり。
塩野にボロクソでしたが、では、この各論の道を突き進みたいと思います。
007:総論5(行政法の停滞・思考停止の理由)歴史的考察歴史的考察(続き4):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について4つの段階に分けて眺める(その3) 2026.8.24
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したものその5。
Subject: [2019maxlaw:2392] 行政裁量論の基本問題(9):歴史的考察(続き4):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について4つの段階に分けて眺める(添付ファイルの解説)
Date: Mon, 10 Jan 2022 22:10:19 +0900
柳原です。
先ほど、日本の行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる論争史を4つの段階で区切ってみると、次のように言えるのではないかと書きました。
【第1期】貴族の改革(と挫折):戦前の大正デモクラシーの理論家でもある美濃部達吉、佐々木惣一らの明治憲法下における「法律の留保」論←しかし、天皇機関説、京大事件などで彼らは追放、迫害に遭い、挫折。
【第2期】大衆の変革:ポツダム宣言受諾後に、天皇主権から人民主権に憲法が大転換を遂げ、この大転換に相応しく、どれだけ行政法も転換するかをめぐる論争→羈束行為か自由裁量か(黒(拘束)か白(自由)かをめぐる)論争
【第3期】支配者の反動:終戦から5年後にGHQの反動、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉を受け、行政法の裁量論も羈束行為か自由裁量かを相対化し、結果的に自由裁量論の復活(田中学説)。
【第4期】激動の再定義:311の激動を契機に、この間の行政法学者の停滞、思考停止を打破し、未完の革命である「憲法の大転換に即して行政法の大転換」の継続・再定義に向かう。
そして、この論争史の4つの段階を図示したファイルを添付しましたが(後注:末尾の画像の通り)、解説が何もないと折角の図示が分らないので、解説します。
戦前から戦後にかけて(第1期から第2期)、行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる議論は、もっぱら、
「当該行政庁の措置は羈束行為か自由裁量か」
として論じされてきました。この論点の形自体に戦前と戦後で「切断」はありません。
ところで、図は座標軸のようなものを意識して、いわゆるX軸に、この論争に対する学者の見解をⓐからⓖまで、並べました。
各見解の名称とその中身は、添付の杉村敏正の『「法律の留保」論に関する覚え書』の31頁以下に解説してあります。
そのイメージは、
ⓐは明治憲法下における美濃部らの見解で、基本的に「人民の自由と財産を侵害する行政の行為は、法律の定めによることを要する」というものです。
ⓐから左側に行くにつれ、羈束行為である範囲が拡大して行き、一番左のⓖは「完全全部留保説」といわれるもので、かつて杉村が主張し、のちに厳しすぎるというので、ⓕの「原則的完全全部留保説」に修正したものです。
↑
ともあれ、ⓐからⓖまで7つの見解の共通点は、「羈束行為か自由裁量か」を問うものであることです。その際、人民主権に大転換した日本国憲法の基本原理を最大限活かしたいと考える者は限りなく左側に近づいていきました。
↑
そこからみると、そのあとの第3期の議論の枠組みは、或る種の困惑を与えます。
折角、いかにして自由裁量の余地を狭めようと努力してきたのに、その努力がまるで水の泡になるような気分に襲われるからです。
この点について、この間、読んできた亘理格という行政法学者は、単に、この問題への接近の仕方が変化したと言うばかりで、なぜ、どうしてそのように変化したのか、その必然性、必要について、その理由を明らかにしません。だから、ものすごく消化不良でムカつく。
↑
そして、第3期の最大の問題は、行政裁量論の問題を、新たな視点で捉え直した結果、当該措置が違法になるのは、結局のところ、昔から言われてきた「裁量権の逸脱・濫用」の場合に限られる、という手法が正当な理由を明らかにすることもなく、何気なく復活し、でんと定着してしまったことです。
↑
この第3期における最大の特徴が、新たな視点で問題を立てた結果、当該措置の違法は「裁量権の逸脱・濫用」の場合だという見解です。これこそ歴史の4つの段階の3番目「支配者の反動」に相応しい反動的な理論です。
この古典的な保守反動の議論を打破するために、改めて「行政裁量論の再定義」に挑戦し、「裁量権の逸脱・濫用」論に風穴を開けるべく、励む必要がある。それが今、第4期の中にいる私たちのミッションです。
※行政裁量論をめぐる行政法学の論争史(2022年1月10日)
013:各論3(いかに市民に告知・アピールするか):第三次実験ノート提訴時の記事 2026.8.26
情報公開裁判の目的は裁判自体の勝訴というより、裁判を通じ、政府が隠蔽している情報が市民にとってどれくらい重大な、重要なものであるかをひとりでも多くの市民に認知、理解してもらうことにある。 そのためには、情報公開裁判を市民にどう知らせるか、その告知の仕方がとても重要。つまり、市民に...
-
0、はじめにーー自省ーー これまで情報公開法の文献(例えば宇賀の教科書)を読んできて、そんなものかと思ってこれを受け入れてきた。だが、今、それが「煮え切らない」「中途半端」なものに思えてならない。その根本的な理由は、「情報公開法をめぐる権利・利害の衝突」という現実認識の仕方がリア...
-
0、問題の所在 001で書いた通り、人権である「裁判を受ける権利」をめぐる課題とはーー市民の「裁判を受ける権利」が十分に保障されるかどうかが個別具体的な場面に照らし問われる、という段階にある。 その裁判の最初の場面が管轄(どの裁判所に提訴できるか)であり、もう1つの場面が被告(...
-
以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したものその1。 なお、これに対し必ず次の異論が出るだろうーー行政裁量論と情報公開法の解釈とは、片や法の及ばない裁量論、片や法の解釈論であり、そもそも次元の異なる法律問題であるから、参考にならないと...

