以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したものその4。
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Subject: [2019maxlaw:2391] 行政裁量論の基本問題(8):歴史的考察(続き3):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について4つの段階に分けて眺める
Date: Mon, 10 Jan 2022 20:22:30 +0900
柳原です。
本論の、行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる4つの歴史的段階について。
歴史を4つの段階に分けて眺めるというのは、イギリスの歴史家がお隣のフランス革命の歴史を検討する中で、歴史の激動期・大変動期はだいたい次の4つの段階を経ると指摘していたことにヒントを得たものです。
(そのダイナミズムのイメージを雑駁な図で示すと、右の矢印です)
1、貴族の改革・反抗(上からの改革) →
2、大衆の急進的な変革・反抗 ----→
3、支配者の反動 ←----
4、激動(2の変革)の再定義 -→
きわめて大雑把ですが、この4段階のプロセスを1789年のフランス革命、1917年のロシア革命、日本の明治維新、日本の戦後にそれぞれ当てはまてみると、次のように言えるのではないか。
1、貴族の改革:深刻な財政危機を、まずネッケルら貴族が上から改革を試みる。
2、大衆の変革:バスティーユ襲撃以後、改革の担い手は、裕福な商工業者(ジロンド派)へ、さらに一般大衆(ジャコバン派)へ。急進的から恐怖政治へ。
3、支配者の反動:5年後にテルミドールの反動で、ジャコバン派の粛清・排除。その後、ナポレオンのクーデタ、ブルボン王朝の復活と反動が続く。
4、激動の再定義:1848年の二月革命で共和制復活。1852年のルイ・ナポレオンのクーデタで帝政復活。普仏戦争後、1870年に第3共和制復活と行きつ戻りつ。ここまで来て「フランス革命が再定義」され、君主制が否定され共和制が確立。
1917年のロシア革命
1、貴族の改革(と挫折):1904年の血の日曜日事件のあと、首相ストルイピンが上からの改革に取り組む(のちに暗殺)。
2、大衆の変革:第一次世界大戦の激動の中、1917年、ロマノフ王朝崩壊。政権の担い手は資本家の代弁者らへ(2月革命)。さらに労働者農民ら一般大衆へ(10月革命)。
3、支配者の反動:1929年、スターリンの富農の粛清を皮切りに、反対派の粛清が続く。
4、激動の再定義:1956年、首相フルシチョフによるスターリン批判で、「ロシア革命の再定義」の初めての試み。
日本の明治維新
1、貴族の改革:幕末に、有力藩主による幕藩体制の改革(公武合体論)。
2、大衆の変革:幕府の権威失墜の中で大政奉還(崩壊)。内戦(戊辰戦争)を経て、明治4年の廃藩置県で政権の担い手は大名から木戸、大久保ら急進派下級武士へ。
3、支配者の反動:明治6年征韓論クーデタで進歩派の江藤新平下野。明治14年のクーデタ、政府進歩派の大隈派、慶応義塾派を全て追放。
4、激動の再定義:「明治維新の再定義」をスローガンに掲げる自由民権運動の高揚により明治22年、東アジア発の立憲政治(明治憲法制定)がスタート。
日本の戦後
1、貴族の改革(と挫折):ポツダム宣言受諾後、近衛らが「天皇主権」を前提にした国体・旧憲法の改革(人民主権を求めるGHQから「天皇主権」を否定)
2、大衆の変革:軍国主義者らの追放、治安維持法の廃止、農地改革、人民主権の憲法制定、社会党政権の誕生。民主化の春到来。
3、支配者の反動:5年後にGHQの反動で、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉。
4、激動の再定義:15年後の六十年安保で、「戦後民主主義の再定義」が始まる。
そこで、この考え方を日本の行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる論争史に当てはめると、次のように言えるのではないか。
【第1期】貴族の改革(と挫折):戦前の大正デモクラシーの理論家でもある美濃部達吉、佐々木惣一らの明治憲法下における「法律の留保」論←しかし、天皇機関説、京大事件などで彼らは追放、迫害に遭い、挫折。
【第2期】大衆の変革:ポツダム宣言受諾後に、天皇主権から人民主権に憲法が大転換を遂げ、この大転換に相応しく、どれだけ行政法も転換するかをめぐる論争→羈束行為か自由裁量か(黒(拘束)か白(自由)かをめぐる)論争
【第3期】支配者の反動:終戦から5年後にGHQの反動、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉を受け、行政法の裁量論も羈束行為か自由裁量かを相対化し、結果的に自由裁量論の復活(田中学説)。
【第4期】激動の再定義:311の激動を契機に、この間の行政法学者の停滞、思考停止を打破し、未完の革命である「憲法の大転換に即して行政法の大転換」の継続・再定義に向かう。
この論争史の4つの段階を図で示したのが添付のワード文書です。
この間、読んできた亘理格という行政法学者の「公益と行政裁量」の中で、彼が行政裁量論の論争が、それまでの論点であった「羈束行為か自由裁量か」が、或る時点から「相対化された」と書いていたのを図にしたものです。
問題は、「相対化された」という意味ですが、これはそれまで、「羈束行為か自由裁量か」でケリがついていたのが、それだけではケリがつかなくなり、「たとえ自由裁量が認められる場合であっても、なお行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合か」という議論をする必要がある、ということです。
その典型が、昭和48年の日光太郎杉高裁判決で、この判決は地裁判決が「建設大臣の措置は羈束行為だ」と判断してその違法性を導いたのに対し、この判断を否定し、建設大臣には裁量の余地が認められるとした上で、なお、本件の建設大臣の措置には手続き的な過程に照らして違法と判断せざるを得ないという結論を導きました。
つまり、ここでの論点は「羈束行為か自由裁量か」ではなく、「たとえ自由裁量の余地が認められるとしても、なお違法ではないか」というものに変更されたのです。
↑
しかるに、この論点の変更は、行政裁量に対する厳しい司法的統制を発揮する機会をもたらしたか、というと、そうはならず、せっかく、素晴らしい日光太郎杉高裁判決が出現したにも関わらず、この判決のエッセンスを承継する判決はかすかに、藤山雅行裁判長の民事3部判決か、先日の沖縄辺野古埋め立て工事につき、県知事がサンゴ移植の許可を出さなかった裁量権の裁判の宇賀・宮崎少数意見ぐらいでしょうか。
この日光太郎杉高裁判決が残した遺産をいかにして継承するか、これが第4期の課題であり、この課題を上記の亘理格という行政法学者も取り組んでいますが、彼のアイデアには強烈なインパクトがなく、惹かれるところがありません。
その原因をつらつら考えていて、改めて分ったことは、第4期の以下の論点
「たとえ自由裁量が認められる場合であっても、なお行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合か」
これの決め手は、究極的には、憲法の大転換に求めることができるのだと思います。つまり、
行政権は天皇の専権であるという考え方は、天皇主権が否定され人民主権が確立した日本国憲法の下ではもはや通用しない。
人民主権の日本国憲法のもとでは、国政は国民の厳粛な信託によるものであるから、行政権の行使も国民の意思にもとづいて国民のためになされなければならない。
とすれば、代表民主制を採用した日本国憲法下においては、行政権は、国民の代表機関である国会の法律という形式で表示された国民の意思を現実化するものとして発動されなければならない。
まずはこの大原則の観点から、「行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合であるか」を検討していく必要がある。
↑
この原理を確認するところからスタートして、第4期の課題の解決に具体的に取り組んでいくこと。これが肝要である。
ここまで書いて、我ながら、行政裁量論の基本問題はほぼスッキリしました。
今度は、これを踏まえて、ようやくですが、各論の問題を片付けたいと思います。
Subject: [2019maxlaw:2391] 行政裁量論の基本問題(8):歴史的考察(続き3):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について4つの段階に分けて眺める
Date: Mon, 10 Jan 2022 20:22:30 +0900
柳原です。
本論の、行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる4つの歴史的段階について。
歴史を4つの段階に分けて眺めるというのは、イギリスの歴史家がお隣のフランス革命の歴史を検討する中で、歴史の激動期・大変動期はだいたい次の4つの段階を経ると指摘していたことにヒントを得たものです。
(そのダイナミズムのイメージを雑駁な図で示すと、右の矢印です)
1、貴族の改革・反抗(上からの改革) →
2、大衆の急進的な変革・反抗 ----→
3、支配者の反動 ←----
4、激動(2の変革)の再定義 -→
きわめて大雑把ですが、この4段階のプロセスを1789年のフランス革命、1917年のロシア革命、日本の明治維新、日本の戦後にそれぞれ当てはまてみると、次のように言えるのではないか。
1、貴族の改革:深刻な財政危機を、まずネッケルら貴族が上から改革を試みる。
2、大衆の変革:バスティーユ襲撃以後、改革の担い手は、裕福な商工業者(ジロンド派)へ、さらに一般大衆(ジャコバン派)へ。急進的から恐怖政治へ。
3、支配者の反動:5年後にテルミドールの反動で、ジャコバン派の粛清・排除。その後、ナポレオンのクーデタ、ブルボン王朝の復活と反動が続く。
4、激動の再定義:1848年の二月革命で共和制復活。1852年のルイ・ナポレオンのクーデタで帝政復活。普仏戦争後、1870年に第3共和制復活と行きつ戻りつ。ここまで来て「フランス革命が再定義」され、君主制が否定され共和制が確立。
1917年のロシア革命
1、貴族の改革(と挫折):1904年の血の日曜日事件のあと、首相ストルイピンが上からの改革に取り組む(のちに暗殺)。
2、大衆の変革:第一次世界大戦の激動の中、1917年、ロマノフ王朝崩壊。政権の担い手は資本家の代弁者らへ(2月革命)。さらに労働者農民ら一般大衆へ(10月革命)。
3、支配者の反動:1929年、スターリンの富農の粛清を皮切りに、反対派の粛清が続く。
4、激動の再定義:1956年、首相フルシチョフによるスターリン批判で、「ロシア革命の再定義」の初めての試み。
日本の明治維新
1、貴族の改革:幕末に、有力藩主による幕藩体制の改革(公武合体論)。
2、大衆の変革:幕府の権威失墜の中で大政奉還(崩壊)。内戦(戊辰戦争)を経て、明治4年の廃藩置県で政権の担い手は大名から木戸、大久保ら急進派下級武士へ。
3、支配者の反動:明治6年征韓論クーデタで進歩派の江藤新平下野。明治14年のクーデタ、政府進歩派の大隈派、慶応義塾派を全て追放。
4、激動の再定義:「明治維新の再定義」をスローガンに掲げる自由民権運動の高揚により明治22年、東アジア発の立憲政治(明治憲法制定)がスタート。
日本の戦後
1、貴族の改革(と挫折):ポツダム宣言受諾後、近衛らが「天皇主権」を前提にした国体・旧憲法の改革(人民主権を求めるGHQから「天皇主権」を否定)
2、大衆の変革:軍国主義者らの追放、治安維持法の廃止、農地改革、人民主権の憲法制定、社会党政権の誕生。民主化の春到来。
3、支配者の反動:5年後にGHQの反動で、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉。
4、激動の再定義:15年後の六十年安保で、「戦後民主主義の再定義」が始まる。
そこで、この考え方を日本の行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる論争史に当てはめると、次のように言えるのではないか。
【第1期】貴族の改革(と挫折):戦前の大正デモクラシーの理論家でもある美濃部達吉、佐々木惣一らの明治憲法下における「法律の留保」論←しかし、天皇機関説、京大事件などで彼らは追放、迫害に遭い、挫折。
【第2期】大衆の変革:ポツダム宣言受諾後に、天皇主権から人民主権に憲法が大転換を遂げ、この大転換に相応しく、どれだけ行政法も転換するかをめぐる論争→羈束行為か自由裁量か(黒(拘束)か白(自由)かをめぐる)論争
【第3期】支配者の反動:終戦から5年後にGHQの反動、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉を受け、行政法の裁量論も羈束行為か自由裁量かを相対化し、結果的に自由裁量論の復活(田中学説)。
【第4期】激動の再定義:311の激動を契機に、この間の行政法学者の停滞、思考停止を打破し、未完の革命である「憲法の大転換に即して行政法の大転換」の継続・再定義に向かう。
この論争史の4つの段階を図で示したのが添付のワード文書です。
この間、読んできた亘理格という行政法学者の「公益と行政裁量」の中で、彼が行政裁量論の論争が、それまでの論点であった「羈束行為か自由裁量か」が、或る時点から「相対化された」と書いていたのを図にしたものです。
問題は、「相対化された」という意味ですが、これはそれまで、「羈束行為か自由裁量か」でケリがついていたのが、それだけではケリがつかなくなり、「たとえ自由裁量が認められる場合であっても、なお行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合か」という議論をする必要がある、ということです。
その典型が、昭和48年の日光太郎杉高裁判決で、この判決は地裁判決が「建設大臣の措置は羈束行為だ」と判断してその違法性を導いたのに対し、この判断を否定し、建設大臣には裁量の余地が認められるとした上で、なお、本件の建設大臣の措置には手続き的な過程に照らして違法と判断せざるを得ないという結論を導きました。
つまり、ここでの論点は「羈束行為か自由裁量か」ではなく、「たとえ自由裁量の余地が認められるとしても、なお違法ではないか」というものに変更されたのです。
↑
しかるに、この論点の変更は、行政裁量に対する厳しい司法的統制を発揮する機会をもたらしたか、というと、そうはならず、せっかく、素晴らしい日光太郎杉高裁判決が出現したにも関わらず、この判決のエッセンスを承継する判決はかすかに、藤山雅行裁判長の民事3部判決か、先日の沖縄辺野古埋め立て工事につき、県知事がサンゴ移植の許可を出さなかった裁量権の裁判の宇賀・宮崎少数意見ぐらいでしょうか。
この日光太郎杉高裁判決が残した遺産をいかにして継承するか、これが第4期の課題であり、この課題を上記の亘理格という行政法学者も取り組んでいますが、彼のアイデアには強烈なインパクトがなく、惹かれるところがありません。
その原因をつらつら考えていて、改めて分ったことは、第4期の以下の論点
「たとえ自由裁量が認められる場合であっても、なお行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合か」
これの決め手は、究極的には、憲法の大転換に求めることができるのだと思います。つまり、
行政権は天皇の専権であるという考え方は、天皇主権が否定され人民主権が確立した日本国憲法の下ではもはや通用しない。
人民主権の日本国憲法のもとでは、国政は国民の厳粛な信託によるものであるから、行政権の行使も国民の意思にもとづいて国民のためになされなければならない。
とすれば、代表民主制を採用した日本国憲法下においては、行政権は、国民の代表機関である国会の法律という形式で表示された国民の意思を現実化するものとして発動されなければならない。
まずはこの大原則の観点から、「行政庁の具体的な措置が違法と判断されるのはいかなる場合であるか」を検討していく必要がある。
↑
この原理を確認するところからスタートして、第4期の課題の解決に具体的に取り組んでいくこと。これが肝要である。
ここまで書いて、我ながら、行政裁量論の基本問題はほぼスッキリしました。
今度は、これを踏まえて、ようやくですが、各論の問題を片付けたいと思います。
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