以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介の続き。
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Subject: [2019maxlaw:2325] 報告(続き):塩野・宇賀の不徹底な行政裁量論の壁を突破しようとした小早川理論が結実したのが日光太郎杉東高判決
Date: Mon, 29 Nov 2021 10:15:27 +0900
柳原です。
昨日、書き始めて、別件でバタバタしていて、中断していました行政裁量論の革命的見解=小早川理論の続きを書きます。
1、問題の発端
私にとって、行政裁量論は、行政の独裁の正当化理論です。それは、行政法の基本原理として「法律による行政の原理」が認められたのに、行政裁量論はたとえその必要性が認められるとしても、この基本原理の重大な例外を認めることになるのだから、その例外を容認するためには、厳密な正当化の根拠の説明が求められます。
にもかかわらず、これまで通用してきた「行政裁量権の逸脱と濫用」の説明では、単に「社会通念上著しく妥当性を欠いたかどうか」で違法性を判断するという、極めてザルの判断手法が取られて来ました。
その結果、事実上、行政の独裁(専横)がまかり通って来ました。
この理不尽さを、塩野も、教科書の裁量論のところで指摘しておきながら、その矛盾の解決を正面から立ち向かおうとせず、実にコソコソと遠慮深く記述しており、その中で用心深く指摘したのが、
日光太郎杉東高判決(昭和48年7月13日)
です。この判決要旨のエッセンス部分
「本来最も重視すべき諸要素、諸価値を不当、安易に軽視し、その結果当然尽すべき考慮を尽さず、または本来考慮に容れるべきでない事項を考慮に容れもしくは本来過大に評価すべきでない事項を過重に評価し、これらのことにより同控訴人のこの点に関する判断が左右されたものと認められる場合には、同控訴人の右判断は、とりもなおさず裁量判断の方法ないしその過程に誤りがあるものとして、違法となる」
まで紹介しておきながら、なぜ、このような判断手法が正当化されるのか、その根拠となる理論的な説明は一切せずに、せいぜい、そのあと、この重大判決が最高裁によって骨抜きにされていく過程をおそるおそる紹介するにとどまっています。
この塩野の耐えられないほどの用心深さに、正面から切り込み、日光太郎杉東高判決が示した判断手法の理論的な基礎を提供したのが、
昨日紹介した佐々木惣一=小早川光郎理論です。
それは、これまで行政裁量の領域では、行政の合目的な判断が尊重されるという名目で、行政独裁を正当化してきたのに対し、「待て!そんな専横は許されない」と、行政の合目的な判断過程に、再び、
判断基準に関する規範の再導入を目論んだものです。
だから、これは結局、この規範の再導入によって「規範による行政の原理」が実現したことになり、その意味で、これは「法律による行政の原理」の再定義です。
↑
この理論が政府権力者を激怒されることは当然予想されることで、彼らの反論はまず、
「そもそもそんなだいそれた理論はいったい何を根拠に主張できるのか。その根拠を示せ」
として現れると思います。
↑
私も、ここが最も気になるところで、革命的な主張は、非合法で主張するにひとしいものだとしたら、その理論的根拠なんか示せないんじゃないかと思ったからです。
しかし、小早川は、この根拠(の1つ)について、さり気なく、何の衒いもなく、ぬけぬけとこう書いていたのです。
「明文の定めがなくても当然に予定されているものと考えられる」(昨日アップした論文393頁1行目)
↑
何と!何という大胆不敵さ。これだったら、何でも言えるじゃん、殆ど「非合法の主張」と紙一重じゃん。と思って、上記の記述の注(21)を読むと、こう書いてあります。
「このような行政の考慮義務の観念(←上に指摘した判断基準に関する規範)は、佐々木惣一が『行政機関が自由裁量の職権を有する場合には誠実に考量してその活動の直接の標準を選択するを要する』と説いているところに、すでに含まれている。それは、公務員のいわゆる忠実義務の一部をなすものでもあると考えられる。
↑
つまり、行政の本質=私益ではなく、もっぱら公益のために奉仕する公務員の職権行使にあたって、誠実な行使、忠実義務から導かれるのだ、と。
まあ、「法律による行政の原理」よりもっと根本に遡り、民主主義の大原理に立ち帰って、行政の裁量行為をこう再定義したんですね。
私は、小早川のこの徹底した原理主義者ぶりに、あっぱれと感服した次第です。
そして、小早川が彼の理論を具体化、結実化したものとして、塩野が裁量統制のリーディングケースとして推奨する日光太郎杉東高判決となります。
つまり、塩野が説明しなかった、なぜ日光太郎杉東高判決のロジックが裁量統制の一般論として認められるのか、その正当化の根拠を示したのが佐々木惣一=小早川光郎理論です。
それゆえ、最高裁が日光太郎杉東高判決を心底敵視していることはミエミエです(最高裁HPにも掲載されていない!)。
しかし、塩野、小早川、宇賀をはじめ学者がこぞって推奨する日光太郎杉東高判決の徹底活用が、私どもの二審の決め手になると考え、その理論的な正当化を示すために、佐々木惣一=小早川光郎理論を紹介しているところです。
この稿、続く。
先日の弁護団会議で、予告しました、今週末に行政裁量論を準備するという件、昨日、それを初めて、夜中にビックリ仰天、腰を抜かすような学説に出会いました。
1946年京都生まれの行政法学者小早川光郎の教科書と論文です(添付しました。論文は388頁以下)。
そのポイントは、
行政裁量の中心的な課題とは、行政機関が案件を処理(行政行為)する際の判断基準が法定されていない場合、その判断基準の穴を補充することにある、と。
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これって、法の欠缺の中心的な課題と同じじゃないか。なぜなら、法の欠缺も事実関係に対応する法定めがない場合、その穴を補充することにあるからです。
これまでずっと、法の欠缺の克服という課題は、311以後の最大の法律問題だと思って、その意義を考えて来ましたが、ここに来て、その思想が行政裁量でも妥当することを、理論的に示してくれたのが小早川でした。
しかも、小早川がこの見解の拠って立つ基盤は、今から90年前の京大の行政法学者佐々木惣一の「行政機関の自由裁量」です。
行政裁量の最先端の議論がすでに、90年前、美濃部と佐々木によって主張されていたとは、この90年間、何やってたんだと思います。
ちなみに、この2人はともに学問の自由の弾圧を受けた当事者です。何かすごい連中ですね。
この論点、続く。
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