以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したもの。腰が抜けそうになった、行政裁量に関する革命的主張をしていた小早川光郎の発見の紹介と自問自答。
◆コメント
どちらも補充する点は共通だが、ただし、法の欠缺は「法の解釈」のレベルで補充するのに対し、小早川の補充は「法の解釈」ではなく、「行政裁量の中の基準」にとどまるのではないか。その結果、たとえこの基準に違反しても、違法にはならず、単なる当不当のレベルにとどまるのではないか。
↑
それに対し、上記の基準違反を違法と言うためには、小早川の議論を「法の解釈」として主張する必要があるが、そのためには、その根拠、正当理由が必要。問題は、それはどこに見出せるか?にある。
-------- Forwarded Message --------
Subject: [2019maxlaw:2324] 報告:腰が抜けそうになった行政裁量に関する革命的主張:行政裁量の中心的な課題は法の欠缺のそれと同じだ、と。
Date: Sun, 28 Nov 2021 15:03:51 +0900
柳原です。
先日の弁護団会議で、予告しました、今週末に行政裁量論を準備するという件、昨日、それを初めて、夜中にビックリ仰天、腰を抜かすような学説に出会いました。
1946年京都生まれの行政法学者小早川光郎の教科書と論文です(添付しました。論文は388頁以下)。
そのポイントは、
行政裁量の中心的な課題とは、行政機関が案件を処理(行政行為)する際の判断基準が法定されていない場合、その判断基準の穴を補充することにある、と。
↑
これって、法の欠缺の中心的な課題と同じじゃないか。なぜなら、法の欠缺も事実関係に対応する法定めがない場合、その穴を補充することにあるからです。
これまでずっと、法の欠缺の克服という課題は、311以後の最大の法律問題だと思って、その意義を考えて来ましたが、ここに来て、その思想が行政裁量でも妥当することを、理論的に示してくれたのが小早川でした。
しかも、小早川がこの見解の拠って立つ基盤は、今から90年前の京大の行政法学者佐々木惣一の「行政機関の自由裁量」です。
行政裁量の最先端の議論がすでに、90年前、美濃部と佐々木によって主張されていたとは、この90年間、何やってたんだと思います。
ちなみに、この2人はともに学問の自由の弾圧を受けた当事者です。何かすごい連中ですね。
この論点、続く。
0 件のコメント:
コメントを投稿