以下は、子ども脱被ばく裁判二審で行政裁量論が中心テーマとなった時の弁護団MLに投稿したものその3。
-------- Forwarded Message --------
Subject: [2019maxlaw:2390] 行政裁量論の基本問題(7):歴史的考察(続き2):「311後の行政法学はどこにいるのか、どこに向かうのか」について4つの段階に分けて眺める
Date: Mon, 10 Jan 2022 18:18:40 +0900
柳原です。
昨日から「唐人の寝言」と見まがうような意味不明の文章を書き連ねておりますが、その心はもっぱら、絶対の確信を抱いて本裁判の行政裁量論の主張をしたいがためです。なので、今しばらくご容赦下さい。
1、前置き
先ほど、田中二郎の「法律による行政」の原理(法治主義)の捉え方を紹介しましたが、その検討をしていて、彼の教科書には、自分の見解を師匠の美濃部達吉の考え方に帰依し、依拠しているのだと言わんばかりの書きっぷりをしているわけですが、
しかし、改めて思うに、田中二郎は、たとえその動機において師匠の美濃部学説を最大限尊重しようという純粋な気持ちに裏打ちされたものだとしても、結果的に、彼がやったことは、師匠の美濃部学説を根本から踏みにじる背徳者という役回りを演じてしまったと思う。
その理由は単純で、法治主義に関する美濃部学説の基本的な大前提は、
行政法の上位規範である憲法に則して行政法を解釈し、そこから法治主義に関する見解も引き出した、ことです。
すなわち、ここでの「憲法」は明治憲法です。明治憲法における人権保障とは人民の自由と財産は「法律の留保」という限界の中で認められたもので(第2章)、この明治憲法の大原則に即して行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲も、
「人民の自由と財産を侵害する行政の行為は、法律の定めによることを要する」という結論を引き出しました。
↑
これが美濃部学説の基本スタンスだとしたら、そして田中二郎がこれを支持し、帰依するんだとしたら、同様に、
行政法の上位規範である憲法(ここでは明治憲法から大転換した日本国憲法)に則して行政法を解釈し、そこから法治主義に関する見解も引き出すべきです。
そのとき、人権保障を明治憲法のように限定的、制限的、外見的にしか保障しなかったのと異なり、抜本的に徹底した保障に改まった以上、その大転換に即して、行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲も大転換すべきです。
しかし、彼はそれをしなかった。師の根本思想を裏切って、師の結論だけを踏襲した、「現代の行政活動の複雑多岐」とかいう社会現象を大儀名文にして。それこそ、師の思想に対する度し難い裏切り行為だと思う。
戦後行政法学のリーダーの田中二郎がこんな体たらくだから、彼の娘婿で弟子の塩野宏も、またその弟子の宇賀も、裁量論で明快な議論なんかできないすよね。
↑
この行政法学界の絶望的な風景を前にして、
私は、思い切って、田中二郎の師匠である美濃部達吉に帰って考えるのが或る意味で、有益だと思うようになりました(←後注:「国敗れて3部あり」と唄われた藤山雅行裁判官も美濃部達吉の教科書を精読していた)。
例えば、彼は日本国憲法の制定に反対した。その理由は明治憲法の改正という方法では「不可能だから」と。その通りです。天皇に主権を認める明治憲法の「改正」で、主権を人民に変更することは明治憲法の自殺行為であって、不可能だからです。
こうした彼の論理の徹底性、透視力には一種の凄みがあり、その極みは彼の天皇機関説が攻撃された時の国会での彼の弁明演説(>こちら)
だから、この「法律による行政」の原理の妥当範囲という問題も、美濃部の明快なところは、国際人権法でも登場する「序列論」つまり下位規範である行政法は上位規範である憲法に適合したものでなければならない、という基本原則に充実だったことです。
美濃部のこのすざまじいまでの論理の徹底性こそ、今の忖度行政法学者が最も学ぶべき点だと思うからです。
そして、その精神を最も受け継いでいるのが、直接の弟子でも何でもない、杉村敏正や今村成和たちです。
私も、杉村敏正や今村成和たちが受け継いだ精神のリレーの伴走者として参加したい。
以下、本論の、行政法の「法律による行政」の原理の妥当範囲をめぐる4つの歴史的段階について書こうと思いますが、長くなったので、別便で書きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿